昭和46年 5月1日 月例祭

 今朝から、あの教話を『人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならんと』人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならんという教話を。
 なかなかそれだけではそういうような行き方にならせて頂くことが、あー、万物の霊長たる者の、また万物を見て道理に合うということが、どういうようなことなのか、なかなか分からんのです。
 今朝の御理解を頂いておりまして、なるほど金光様のご信心はそこのところに、焦点が置かれて信心のけいこをするなら、おかげが受けられるなぁ、お徳も受けられるなぁと、まぁ感じさせてもらいました。
 昨日、私は東京からお客さんを受けておりましたので、えー、昨日、一昨日、29日の「   ?   」、竹内夫妻のお世話を頂きまして、えー、初めて「   ?   」、それから嬉野の温泉、それから「   ?   」けれども、有田の「  ?  」を見せて頂いた。「    ?    」。それはそれは、何と申しますかね、竹内先生あたりの、伊万里市長の招待を受けてからですから、もう行くところ行くところ、もうそれこそ、水も漏らさんばかりの、その用意周到なご招待ぶりでした。
 同時に、私どもが、こちらを立たせて頂いて、あちらに、嬉野に連れてってもらい、「 ?  」って、有田に参りました。それから、帰って参りますまで、またこれ一分一厘まちがいのないところの「  ?  」。
 それこそ、お日様のごと、照って行くような事前調査というか、素晴らしい待遇の中に、まぁ、おかげ頂いたおかげの中に、おかげ頂いた、おかげ頂いたを連発させて頂きながら、まぁ帰らして頂いた。
 「  ?   」申しますとね、私は29日ならまだ「  ?  」があると思っとった。「      ?       」らん。さぁ、旅行するのにお金がない、それは「    ?       」お初穂せんじゃなくて、まぁ、百円か千円か、一万円だけでも、「    ?    」とてもこれじゃあ物足りない。




(途中切れ)




 ところがです、最初私はね、色々感じることがあった。「   ?   」ですか、それが切実に思うこと。というのが、ちょうどいわゆる万物を見て、道理に合う信心とはどういう信心だろうか。キリスト教は道理に合うとらん。仏教はなおさら。
 まぁ、世界の大宗教である、ならキリストとか仏教が道理に合う信心。それは信心の内容そのものは素晴らしい。ご利益を受けるというか、おかげを受けるというか、人間の生き方というものの上にです、そうした人間の幸せを、いわば生み出していく力、働きというものがもっとう。
 けれどもね、教祖様が仰るように、万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心にはなってない。おかしいですね。仏教の教えを「  ?  」頂くと、「精進?」しなくてはならない。
 それは例えば、豚やら牛やらなおさらのこと、生き物は頂いちゃならない。仏教の人達も、「  ?  」などは、たいてい「   ?   」される。キリスト教「   ?   」。十戒という、それはそれは難しい戒めがある。ね、第一私どものような「     ?    」は、まぁキリスト教自身にはなれない。お酒は飲まない。というような、厳しい例えば、戒律やみ教えがあるのでございますけれども。教祖様、人間は命のために食物はあるのだから、命のためにいわば、栄養になるものならば、人間の命のために頂くものであるならば、それは肉を頂こうが魚を頂こうが、という「  ?  」。
 人間の「   ?    」。ね、此の方の行は、火や水の行じゃない、家業の行ぞと。私どもが、日々さして頂いておるその、「         ?       」修行なんです。
 だから、神様に喜んでいただく生き方で、百姓をなされ、または商売がなされ、「  ?  」めなければいけないということになる。ね、これは私じゃないですよ。これは「   ?   」さんが言うてござる。
 私が言うわけない、「   ?   」様が言いござる。けれども、えらい極端のこというご理解だなぁ思いました、今までは。けれども、最近はね、「      ?     」ことにも一理あるなと思うようになりました。
 っていうのはね、真言亡国なんかいう言葉があります。ね、真言宗やらも、国を滅ぼすような宗教なんだ。ね、けれども、あの思想が本当に「      ?      」はなんて言うんでしょうかね。
 もう例えば、祈祷してもらえばですね、病気が治る。体が悪いから、いわば、あー、というようなことでですね、ね、「    ?    」、いわゆる教えられとる、すればいわば「      ?      」になる。
 というのですから、拝んでもらえば助かるという生き方なんですね。なるほど、これでは、真言亡国「   ?   」でも、人間がいわゆる、人間がばかになって、いわゆるばかになっていくと言ったらおかしいですけれどもね。
 自分というものが、磨かれるとか、改まられるとか、自分でで自分の心が拝みとうなるといったようなものではないということ。様々ないわゆる一つの、いうならば弘法大師が立てられたんですからね。
 いうならば、「  ?  」の裏をかくような悪いことをしてもです、「  ?  」の裏をかく手があるというような感じが。なるほど、こういう生き方、なるほど、日蓮様が亡国だと言われたはずだと思うです。
 「    ?     」いうこともありましょう。ご利益「   ?    」。けれども、どうにも人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合うとはならない。道理に合わん。
 ね、「  ?  」。それから「     ?      」こうやって「   ?  」。病気が治った。もし治ったにしても、そういうことで人間の幸せがあるとするなら、人間はいよいよ頭も使わんでいい、心も使わんでいい。ということになるんじゃないですか。
 ね、真言亡国。念じて無限という。ひどい言葉ですよね。念仏して、いわゆる親鸞上人様がおこしになったら、いわやる仏教浄土真宗というのは、ああいう信心をしよると、無限地獄に落ちなければならないぞと、とにかく「   ?   」ます。
 当時、真宗仏教というのは、大変な勢いで日本全国を、いわば「   ?   」した宗教です。当時のいわば、真宗、新興宗教だったわけです。しかも、誰でも「   ?   」ような素晴らしいお話だったわけなんです。
 ね、どんなに罪深い者でも、どんなに悪人であろうが、業の深いのであろうが、南無阿弥陀仏を命さえすれば、南無阿弥陀仏を唱えさえすれば、「    ?   」がその場で助かるんだと「   ?   」。そらまぁいうならば、狩人も猟師もね、常日頃が罪深い仕事をしてるんだと思うて、自分なんかはもう極楽にいけるなんては望んでなかった人達までがです、そういう有り難い教えならばというて、南無阿弥陀仏。かんたんです。 ね、南無阿弥陀仏。それは例えば、「    ?    」がありますけれどもです、例えば地獄の苦しみにあったところで、その地獄の中でも阿弥陀如来様の懐ぞと、「   ?  」。
 ね、どんなに苦しいところであっても、「     ?     」。阿弥陀如来の「   ?    」と説いたわけです。仏様のお懐の中ぞと説いたわけです。「        ?           」だと思われますね。
 「    ?    」。しかし、「      ?     」思い出したら、なるほど、ほんとそうだなぁと思いますね。
 「      ?     」はなくとも、風を見てから、「                  ?                       」。じーっと、しとってから極楽浄土を願うなんて、ここに「    ?     」してもらう。
 ね、例えばなら、教祖のみ教えを持ってくるならばです、ね、此の方の道は、火や水の行ではない家業の行なのだ、家業の中に「    ?    」。本当に人が喜ぶことのために、人が助かることのために、または天地の道理さえさして頂けばです、そこに幸せの道が開けてくるのだと説いておられます。
 人間が活き活きと活動をさして頂きながら、さして頂く「   ?   」、いよいよお道の信心のありがたいのに思わして頂き、「           ?         」私ははじめてこんなよその宗教の悪く、これは私が言うてるんじゃないですね、日蓮上人様がそげん言うとるだけです。真言亡国、念仏侮言、ね、「   ?   」ます。そして、法華経であるところの、日蓮が唱える宗教が、世界第一なんという。
 そりゃ、その当時はそうだったかもしれんけれども、金光様のご信心を頂くようになったらね、もうこげな「   ?   」と強い宗教なんてないですよね。人のことを悪く言わなければ、その道が立たないというんですから。
 もういっつも「   ?   」しかも金光様の「      ?      」。金光様の「         ?           」それを知ろうと、人のことを、例えば、「    ?     」となんとかかんとかってね。
 「   ?   」ですね。折伏ですね。折伏する時には、相手といつも喧嘩しとる気持ちなんです。だから、これが、これ自体が助かってない。
 「    ?    」の高山さんの所へ、折伏にやって来た、何人もおりゃ「    ?   」。あんたんところは、教祖様の信心しよるけん、子供が「     ?      」、あんたのお父さんが具合悪かとも、あんたが教祖様の信心しよるけん、そげんなことにしかないったい。でまたそこへ、やはり信心を頂いとりましたから黙って、ね、そして、最後に言いました。あなた方、「      ?     」っていう話をされてるのにね、そげんにやっぱり素晴らしい宗教ならね、あなた方達が「         ?      」して、必ずそういう助かるとならば、それは甘いところに、蟻が集まってくるように、集まってくるでしょうのにと言うた。
 私ども、合楽のおかげ頂いとる親先生は、もう朝から晩まで、御結界に座っておられるが、そのかわりに助けを求めてやってきた者はです、もう必ず助けずにはおかんという勢いで、お取次ぎくださる。
 だから、合楽はまだ何年かの間に、あれだけの人が集まってくるようになったんですよというて話した。それも一部なのだから。ね、本当にそんな助かられる力を持っておるならばです、助からなならん。助からん。
 そしたら、「             ?             」。金光様と創価学会とどっちが成功するといったら、「          ?        」まぁそういうこと言いながら帰っていったと。
 こっちが金光様頂いとるけん、有り難い有り難いで受け取ったところがです、「             ?        」高山さんが「        ?      」わけ。ちょうど高山さんが「   ?   」こりゃ負けたと思ったでしょうね。
 その「         ?             」、なぜかと、私いっちょんそこまでは、人間は万物の霊長であるから、万物を見て、万物を見て道理に合った信心ゃなからなければならない。
 道理に合わんでいいならね、そういう素晴らしい信心もある。ね、世界中に広がっとる仏教も、キリスト教も同じなんだ。けれども、どう考えたって、人間が万物の霊長であるならばです、万物の霊長であるとして頂くものは、ちょっと「  ?  」がある、間違いがあるなという感じがする。
 ね、どうでしょうか。もうこの頃は、「         ?          」裏門から行きよったけれどもね、この頃はもう表門から堂々と、やっぱ攻めるとですよ。ちょっと、「    ?    」なぁと思ったら、「        ?     」ようになった、それがほんなこっちゃ。
 ね、けれども、仏教のいわゆる教えの源っていうのを訪ねるとです、それはやはり、いわゆる五戒の中に、ね、仏教信心するものは、そういうことであったらならないと、いうふうにやはり説き明かしてある。
 「   ?   」仏教なんったって真言ですからね、後続が非常に深い学の伴うた生き方をしたり。
 私はそのまぁ、「    ?     」に、昨日は有田焼、それから帰りにそれも竹内先生のご案内で、魯山、魯山釜、魯山、ね。窯元に参ります。それでその、「?」の皿とかね、たくさん素焼きの皿は「  ?   」。何にか私どもが絵を書いたり、字を書いたりして、「    ?    」送ってくださるというわけでしょう。
 これに書いてくださいというて、たくさん皿を出してございました。「        ?    」私ど「       ?       」みんながもう先生「      ?     」先生から書いてもらおうということになった。
 そこで私はね、たらいに一枚一枚に、こういうことを書いた。はじめ「泥の心」、次には「水の心」とも書いた。「地の心」、「風の心」とも書いた。天の心、地の心、というようにです、それぞれの心があるんです。
 ね、それを例えば泥の「生態?」とか、水の「生態?」とか申します。私どもがね、人間が万物の霊長であるから、そういう万物を見て道理に合う信心。そこでです、私どもが水の「生態?」を体得させて頂いて、それこそ高いところから低いところに、低いところ、どういう障害があっても、それをまた壊れて向こうに流れていくというほどしのです、「   ?   」いわゆる天の心を頂いたならば、成功しないことはないです。
 また、水のようにそういう丸いコップに入れたら丸くなる、四角い重箱のようなものに水を汲んだら、水が四角になるように、その器にしたがっていくという、素直さがもしあったなら、素直心の一つにして、天の上までも上る道がついてくるだろうと思います。
 万物を見て道理に合う信心とはそういうことなんです。泥の心、ね、それこそ、天地の心。どんなに汚いものであろうが、どういう汚物であろうが、「    ?    」この土壌が必要なんです。信心さして頂く者には。
 馬鹿と言われようが、あほと言われようが、いや、泥棒だと言われようが、乞食だと言われようが、腹を立てな「  ?   」。いわゆる、土の心になるというところ。しかも、それをその黙って受けるだけではない。いよいよ、自分が大きく豊かになっていくだけではない、それを例えば、例えば木なら木、野菜なら野菜に、また送ってあげるという「    ?     」。
 あれが馬鹿っち言うたから、俺も馬鹿っち言うとじゃなくてです、馬鹿と言われた者のことを祈ってやる。しかも、その人が助かりを願っておるというのが、私は土の心だと思う。
 ね、これは万物を、万物を見て道理に合う。だから、あれもこれもということはいらん。土の心一つ覚えればです、それに徹していくならば、お徳が受けられ、力が受けられ、人間の幸せを生むことができるという道なんです。
 ね、とりわけ、「   ?    」天の心が分かれば絶対に、私億万長者になれると思う。いわゆる百万長者である、いわゆる分限者の徳を受けることができると。分限者の徳というのはね、使うて減らぬ金百両ていう。
  使うても使うても減らん。必要な物が、必要に応じて、必要な金が、必要に応じて頂けれるという、そういう道が開けてくる。まぁ、そういうちょっとした手本が私なんです。ね、不思議なことでしょう。ね、私どもが例えば、「   ?    」さしてもらう。「         ?           」開けてみたら、ちょうど、いわゆるこれは、「     ?      」だから知らんかなぁと思うとった。
 ところが実際に、「    ?    」いわば、その手入れの人が「             ?            」実に見事なんです。
 「   ?   」です。また金が七万円もださ「  ?  」。そげん七万円も出しよったら、「     ?        」って言いよったら、「    ?     」十万ばっかりあった。不思議なことですよ。
 ね、貞夫さんが毎日毎日、それの御用しておられるから、ちっとも怒られん。この頃は、一日「  ?  」五十万円くらいお供えしよる。誰もお供えせな助からんと、お供えをせよとは言わんけれども、貞夫さんが毎日のことでね、ただ恐れ入ってしまうと言うた。しかし、今度だけは五十万じゃけん、「     ?      」。「       ?       」それが思いもかけない働きが、そこにこうあっておる。
 ね、私はそういう生活にですね、ならして頂く「    ?     」。それには私どもがです、いわゆる水の心一つでも良い。土の心一つでも良い。万物の霊長であるから、そういう万物を見てその心というものを体得して、それをいよいよ広く深く分からして頂けば、おかげの世界も広いし深うなってくる。
 今朝のご理解の中に言われましたように、教祖金光大神様が教えてくださったことを、「   ?    」より深く、より広くと分からしてくださいと、願い「   ?     」にそうである。
 ね、ただ、教典を覚えるだけなら簡単ですね。けれどもそれ、教祖様のみ教えの中にある、広さがあり深さがあり、その教祖様の教えてくださったことを、今日もどうぞ、昨日よりも深く、昨日よりも広く深く高く、分からしてくださいと願う、その分からして頂くその焦点を、万物を見てから、その信心になっていかな「    ?    」せんと、教祖は説いておられる。
 私どもはそのほんの一部をを、分からして頂いて、成り行きを大切にしろ、成り行きを大事にしろ、ね、これなんかはですね、もう素晴らしい「    ?    }でした。ね、神の心。これは、えー、水の心でもなか、もう土の心も、地の心も、一切の心が入っとる。
 神の心を分からしてもろうたら、「     ?     」。今日は皆さん、ちょうどお供えに、ちょっと変わった銘柄のお酒が、たくさんお供えがあっておりましてね。しかも三本「   ?   」といったような。
 あれは「        ?       」ですね。「   ?   」あると、やっぱお参りも多かし、お供えも多か「   ?   」。
 やはり、おかげ頂くからですよ。二十万やったでしょう、今度は。もう第一、「 ?  」。竹内先生の「  ?   」。
 それから、「      ?       」九十何名。おかげで全部「   ?  」のおかげ頂いた。
 全部じゃなかった、一人だけ「   ?   」があった。それが「     ?    」ありがたいね、「    ?     」。親戚の人といっしょにです。なぜかというとね、一人の「     ?     」。
 それで自分の神様のかの字も言うたことなかったけれども、まぁ聞いておる間に「    ?   」。先生方が一生懸命願われたけれど、もうそれ一回参ってくることはなかった。
 ところが、五人の中の「  ?   」があがった、あがらんやった、「  ?   」で落ちたったい。けれども、「       ?      」おもしろいたい。ね、先生そりゃあなたが、そう言われるとですね、そりゃもう神様の働きとおもわにゃおられない。
 私のように神様のかの字も言うたことないようなものでも、こりゃおかげだなぁ、おかげだなぁと思わして頂いたと。ね、そこで私が申しました、神様いわばおかげというのは、いわゆる難がみかげと仰せられるが、本当にそれをおかげにしていけれるということ信心だと。
 私はそのことを、「    ?    」さしてもらいよりましたら、よう髪をこうすくう櫛が、もう髪をすくわれんような櫛から、本当の櫛を変えるところを頂いた。もしあれが、「   ?   」しておったらどうでしょうか、もう金光様のこの字も、まぁときどきはお礼参りもできるだろうけれどもです、これから本気で信心さしてもろうて、しばらく自分という者を、本気で見つめさせてもらうごと、こうは言うております。
 そのことがです、やはり櫛です、髪をとき流すことができる。ね、髪を、やはり髪ということは、私は信心の神様の、神と思うです。ね、選挙に落ちました。けれども、それを境に金光様のご信心がわかりました。
 こういう生き方も、こうい在り方も、覚えさして頂きました。そして、「     ?    」。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならんという、「   ?   」を分からして頂いて、えらい感動して帰られたいうことである。これからどうなるか分からん。けれども、信心がありさえするならばです、その落ちたことがおかげになるだろうと思わしてもらいます。
 ね、難はみかげとと仰るけれども、やはり信心さして頂いてこそ、初めて難がみかげになるということをです、私どもはまなばないけん。ね、なるほど神様にお願いをすればです、ね、「   ?    」からの、いわゆる全部が全部、信心があるというようじゃない。
 けれども、私「  ?  」というか、「   ?  」さんには、特別に神さまの期待がかけられてるなぁ、と感じさして頂いた。ね、だから、私はここんところをです、「 ? 」さんが分かっておいでられるならばです、ね、必ずいわば、そういう当選せんで落選したということが、おかげであって、一生の幸せに土台になったと「 ? 」になるということを思わして頂くんです。
 ね、そこでです、私どもがね、今日はちょうど前講に久富さんがお話しなさっとた。「   ?   」ある総代、真、真心と「   ?   」いうて、お叱りを頂き、なるほどだと思うたという話をしておられました。
 ね、真が欠けておる。ね、真、真心がないと。これではおかげも受けられんはずだということを分からしてもろうて、そこから私は、分かった生活、分かっていく生活、今日も、教祖金光様が教えてくださったことを、より広くより深く分からして頂くという生活。 ね、そういう生活に、精進さして頂くならばです、よりおかげの世界は大きくなっていくということを、思わしてもらう。
 真心とは、神様が喜んで下さる心だと頂いております。今月の焦点です。真心とは神様に喜んで頂く心。ね、その中に、土の心もあれば、水の心もある、日の心も、または影の心もある。ね、そういう私は、生体というか、そういう心です、私どもの上にしていくという、精進がお道の信心の精進であり、修行である。
 此の方の行は、家業の行と仰る、ただ仕事をしよくだけではない、そういういわば、万物を見て分からしてももろうた道理を、下に土台にさして頂いての働きになってこなければならないということ。
 ね、そこで、万物の霊長としての、いわば、あー、栄えある人生ということかね、万物の霊長だと言われながら、一生を例えば苦労の中に終わったというようなことではいけないでしょう。
 やはり、そこに万物の霊長としての値打ちをそこに発揮できる信心にならして頂くためには、ね、万物を見て道理に合う信心をしなければならんと教えてくださる。ね、どうぞ一つ皆さん、今月の焦点であります、神様が喜んで頂く心とは、それが真心なら、それを追求していこう。そして、私が申しました、私は土の心だけできとうが、いや私には水の心が欠けておる。というならば、分からして頂いたら、本気でその水の心に取り組むこと。土の心に取り組むこと。
 「 ? 」の心とは、真が「 ? 」なら、真心が鉄砲の弾だというように修行生が話された。それだけではいかん。そういう信心の熱情が加えられなければ、真心でないと聞いたとお話をしておられます。
 だから、やはりそれが分かっただけじゃ、神様に向けられる信心の熱情が、「 ?  のように、「  ?  」っていく心の状態が必要なんです。信心には。ね、日の心も良かろう、水の心も良かろう、自分に欠けているもの。自分はこれは、いわば得てだということになりましょう。
 ね、今日の久富さんの「   ?   」のように、まぁ実に土の心をまぁ、生まれつき持ってあると思うんですよ。けれども、その心をです、もっともっと、広く深くです、分からして頂こうとすることなんです。
 ね、自分が熱情がないから、火を見て、燃え盛る様子を見てです。燃え盛っていくことのための信心修行をです、さして頂くということはね、ありがたい。「  ?   」久富さんとお風呂入りましたら、最後にお水をかかっておられる。
 なかなか「  ?  」ようにかかりにくい。いつごろからはじめたのか知らんけれどもです、これは信心の熱情が、いわゆる火のように燃えておる時でなからなければ、表行なんかできません。
 ね、燃えておらなければならん。それに、水の心の素直さというかね、土の心いわば「  ?   」とでも申しましょうか。そういう心を、より深くより広く分からして頂くということに、今月は一つギリギリ焦点を置いて、信心の稽古をさして頂きたいというふうに思います。どうぞよろしくお願いいたします。

佐田與一郎